修業時代

2008年06月09日

初めて任された新築工事-2-

加工も終り、現場に材料を搬入する。
一日目は土台を敷き、
二日目、いよいよ建て方工事に入る。

都会の建て方は、鳶職と言って専門の職人がいた。
鳶職の方は、身軽で動きも機敏なんですね。
大工は建て方工事中は材料の段取りし裏方に回る。
高所作業は鳶の仕事だから、
墨付け加工が間違っていると鳶にどやされるし、
余りホゾが堅いと物なんか飛んでくる。

だから間違いは駄目なんです。

初めての墨付け加工工事。
緊張しながら材料を所定の場所に移動しながら工事を進めて行く。
当時の建て方は手作業、力が入る。
気合を入れないと怪我する。
大声で叫び確認しながら進めて行く。
天候も良かったせいか工事も順調に進み、
1階が建ち2階が建ち、
最後は棟が上がり垂木を取付け、屋根板も張る。

二日目、何とか間違いや怪我も無く
無事工事も終り、ほっとした。

さていよいよ上棟式。
現場での祝宴。
親方はじめ工事関係者が席に着き、
施主さんからの労をねぎらう言葉で始まり
日が暮れるまで喜び、お酒に酔いしれる。
もちろん運転する方は飲まない。
これで上棟式は無事終了。

正直言って上棟式の前夜、全然眠れなかった。
でも、ほっとした。
本当に良い気持ちで疲れました。
施主さんにとって見れば、一生一代の大仕事。
良い物を造りたいと思います、好きな道だから。

後は外部工事、そして中造作工事。
仕上がりが楽しみだ。

施主さん楽しみに待っていてください。

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2008年05月28日

初めて任された新築工事

入門3年目の頃、初めての新築住宅工事を任された。
施主は世田谷区に住む車の営業マン。
図面を親方に渡され、
施主、親方、私と3人で打ち合わせし、
施主の要望を聞きながら再度確認し着工に入る。

何しろ初めての新築住宅工事。
大安吉日を選び、神主に来てもらい地鎮祭を行う。
上棟式と同じく祭壇を設け、
山で穫れた物、海で穫れた物、そして塩水、御酒など祭壇に上げる。

昭和40年ごろの地鎮祭は、棟梁はじめ参列者に御祝儀が出た。
棟梁ほどではないが安給料な自分には
一晩居酒屋で飲める金額だった。

地鎮祭が終わると、すぐ基礎工事の段取りに入る。
建て場所を確認し、地縄張り。
そこに一間置きに木杭をカケヤで打ち込んで
貫を釘で打ち、後は墨出し。
ここまでで大工の仕事は一時終り、後は基礎工事に入る。
半月位で基礎が大体終わる。

今までは親方が段取りしていたが、
これからは一人で段取りしなければならない。
認めてもらう良いチャンスだが、
今度は全責任が自分に来るわけだから、間違いは皆に迷惑がかかる。
再度、施主さんと打ち合わせし、墨付け工事に入る。

墨付けが終わると、今度は加工工程に入る。
一緒に働いている職人と自分と数人で加工し、
加工といっても現在のような木工機械は無く、
あるのは角鑿、電気ドリル、電気鉋の3セット位で、
柱のホゾは竪引き専用の鋸で、挽いてつけるのが当たり前。
和室の化粧柱は合計4回位で仕上げる。
1回目、電気鉋でムラを取る。
寸法通りにかける2回目は手鉋で荒仕上げ、
3回目は中仕上げ、4回目は仕上げ鉋で仕上げる。

ほとんどの工事は手作業だから時間も日も掛かる。
だが現在と違って怪我は少なかった。
当事の仕事は店舗などと違って、住宅は納期が長くあり、
余裕をもって仕事が出来たからだ。
分からない細かい収まりは御爺さん聞いて施工し、
施主さんが満足できるような住宅に出来た。

とにかく毎日が楽しくてしょうがない。 (以下続く)

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2008年05月09日

修行時代 -17歳の頃-

現場にも慣れ、道具や材料の名称も覚えてくる。

同じ寸法でも、使う場所によって言い方が違う。
例えば、節のある桧は土台に使うとか、
節の少ない見た目が奇麗な桧材は柱に使う。
古い時代より棟梁が木材を選び木取りをし墨付けに入る。
木によっては色んな癖があり人間と同じだと思う。
でも樹木は使い方を間違え無ければ言う事をきく。

現在の住宅の土台などは
外材に薬品処理したり集成材や無理に使っている。
やはり土台は桧やヒバ材が好ましい。
木材に薬品処理は避けたほうがよろしい。
薬品だってせいぜい5年ぐらいの保証、
そんな物使うぐらいなら、 前に述べたように桧かヒバ材を使用し、
自然から取れた防儀防虫剤がある。

三鷹の隠岐さんの新築現場での事。
棟梁が墨付けした桧の土台、間すうが長いと継ぎ手があり、
腰掛鎌継ぎといってオスと次は受けるメスが必ずある。
慣れてきたころ反対に加工してしまったことがある。
一時聞けば良かったが、思い込みでやってしまった。
途中で気がついたが、もう遅い。
半分ぐらいで見つかってしまった。
いきなり怒られた。
面倒でも聞きながらやればよかった。

中途半端に覚えたて生意気な17、8歳頃だったかな。
二度や三度の間違い。明日こそ上手くやろう。
それでも、何とか世に出ても恥ずかしくないような職人にしようと
御爺さんは真剣に教えてくれた。

ちょっと話が横にそれましたが、私感として、
なるべくだったら国産材を使用し、足りない分を外材で補うなど、
日本の空気に合わせ、自然のままの住まいが良いと考えています。

どうもブログ苦手だな・・・。

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2008年04月07日

徒弟制度 その3

数ヶ月が過ぎ周りの雰囲気にも慣れ
出入りの業者にも顔を覚えてもらい
何とか自分の居場所が出来つあり。

御爺さんと電車に乗り、都電に乗り換え、現場。
とにかく毎日職人の雑用や掃除。

原宿の現場で残材を片付けしていると
古釘を踏んでしまった。
たいした事は無いと思っていたが
帰り作業を終え家に着くと痛み出した。
訳を御爺さんに話すとえらく怒られた。
踏んだらその場で処置をしないと化膿するそうだ。

踏んだ足出し、布に食用油を含ませて火を付け
油を傷口に垂らし化膿止め。
熱かったが、翌日には痛みが取れた。
なるほどね、さすがは明治37年生まれ、やる事がすごい。
「解体現場で歩く時は材料を踏まない事、足元見て歩け」
と言われた
毎日何かかにか小さいが怪我が絶えない、セッカチな性格か。

でも、現場が数ヶ所あったので、明日はどこの現場かなと、
毎日が楽しくてしょうがない。



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2008年03月19日

徒弟制度 その2

入り立ての数か月の頃は、まだお客さん扱い。
気を使っていたようだ。
せっかくの一番弟子、逃げられては困るだろうからか
最初は現場の掃除や後方付け。
段々と慣れてくると、職人の道具の出し入れ手元。

たまたま最初の現場は麻布十番。
通勤は都電、御爺さんと一緒。
師匠のお父さん、つまり御爺さん師匠だ。
要するに孫弟子だ。

昔堅気の絵に描いたような人。
頭髪は職人刈りで上着は法被、足元は青足袋、腰元は前掛け。
要するに体に金物を付けていない。
今思えば見た目が良い。
誰から見ても職人らしく動く姿は、現場で働く姿に向いてると思う。
法被はゆったり出来ていて働きやすい。
金物が付いて無いから、仕上げた柱や造作などに引っ掛けて
痛めることも少ない。

段々月日が進むうち、雑用。
一番困ったことは現場材料の名称だ。
職人に胴縁の材料があるから持ってこいと言われたが、
現場にはいろんな材料があり、みんな同じに見えるから、
どれが胴縁か分からない。
迷っていると大きな声で怒られる。
そのうち職人が来てこれだと言う。
まあ最初はこんなもの。現場になれるのがせい一杯。


朝寝坊

やっと起きてご飯を食べ現場に入るのが7時45分頃。
一服やお昼ご飯を含めて終業時間は
夏は日が暮れるまで、6時30分過ぎまで働いた。
若かったせいか、ずいぶん長い一日だった。

でも現在と違って40年代は時間がゆっくりと流れていた。
周りの人たちは知らない人にも親切だし、
特に小僧の頃の私には良い印象が今でも残っている。
当時の時代は不便な反面、人にやさしく余裕があったと思う。

明治37年生れの御爺さん、長野県から上京したようだ。
旧制中学校に通いながらこの道に入ったようだ。
いろんな話をしてくれて、
弟子時代は師匠より職人が怖かったらしい。
仕事のことを聞いても教えない。
しょうがないから帰った後で行くと
風呂敷を敷いて隠していたという。
そっとあけて見て、元のようにかける。
技は盗めと言うことだ。

特に、失敗すると皆の前で赤罰をかかせたらしい。
大正時代のことだろう。
要するに仕事は真剣勝負、間違いは許されない。
でも間違いはあったろう。
そんなに完璧に出来ない。
一つや二つぐらいは間違いあるだろう。
でも、後で直せば良い。


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2008年03月14日

「徒弟制度」

こんな歳になってからブログを始めるとは
まさか思ってもいなかった棟梁です。

思いつくままを書いていきますので
どうぞよろしくお願いします。

ちなみに私のURLをリンクしておきますので
興味のある方は訪れてみてください。

"無垢の癒し”



私が弟子入りした頃はオリンピックの年、
まだ日本が景気途上にある時だと思う。

右も左もわからないまったくの世間知らずの田舎坊主、
特に師匠には感謝しています。
田舎坊主いま在るのも師匠在っての俺だから。
人生のしきたり教えてもらい、
二人で何回喧嘩したかわからない。
生意気小僧を此処まで教えてもらい
本当に有難いと思っています。

就職するときに世話してくれた田舎の先輩、
有難う御座います。

弟子時代、一緒に働いたおじいさん、
人生の基本である仕事の段取りやしきたりなど
いろんなこと親代わりになってもらい感謝しています。

師匠にはしばらく会ってない。
声が聞きたいので電話すると
奥さん出て体調を悪くしているそうだ。
十数年会っていないし
見舞いがてらカァちゃんと上京しようと思う。

幼少の頃からいろんな物を作る事が好きで、
特に漫画本の鉄人28号や船・車など
いろんな工作物が大好きだった。

小学3、4年頃だったかな?
学校の帰り足に親戚のおじさんと一緒になり
作りたての工作模型を見せ、
子供ながらいろいろ説明し自慢し
学校の展示会に出品することに思いをつげた。
おじさんからもその方がいいよ言われ、
いろんな所を直し、展示会へ出し、
発表される日を楽しみにしながら待っていたが
発表会の日、見事に金賞をもらった。

校長先生に褒められ担任の先生に絶賛され
子供ながら嬉しかった。
その頃から自分自身に自信が持てるようになったと思う。
やはり血を引くのだろう。
親父や兄貴も物づくりが好きだった。

田舎では、道具を、
農機具などは地元の大工や鍛冶屋さんに
注文し作ってもらい又修理もしてもらう。
すべて世界でたった一つしかない自分の道具、
宝物だと思う。

今日、既製品ばかり目立ち、
みんなが情報に惑わされているように思える。

額に汗を流し働き、時間を掛け、物づくりをして行かないと
外国にみんな行ってしまうと考えている。



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